作品を作ると言うこと ― 2025/05/28

絵の練習を始めたきっかけは、実は終活の一環だった。先のことを考えて色々片付けをしている時に、若い頃から捨てずに持っていた画材の扱いをどうするかと言う問題に直面し、処分するのも勿体無いので、使えるものと捨てるものを仕分けしながら、たとえば固まってしまった油絵の具は捨てるしかないが、きちんと洗っておかないで固まってしまった筆などは、何本かは何とか再生出来て使えるようになった。問題は、書きかけのまま放置していたキャンバス類だが、半世紀近くの時が経ち、絵の具層が劣化してひび割れたり剥がれそうになったりしたものもあり、そういうものは加筆を諦めて木枠から外して保存し、木枠にはパネルを貼って基底材として再利用する為ジェッソを塗ったりしてみた。また、プリンターが無くて使わなくなった沢山のA3のコピー用紙などの有効な使い道として、デッサンの練習でもするかと思うようになり、ちょこちょことやっていたのだが、一昨年晩秋に思い立って地元の美術協会に入ったので、秋の展覧会に作品を出すと言う課題を課す事となり、昨年春頃から久々に絵筆をとり、水彩画、油彩画、色鉛筆画などの練習をし、昨年秋の展覧会には作品らしきものを2点出品した。
そんな経過で、最近は仕事の合間にでは無く、日課としてさまざまな画材で絵を描いているのだが、まだまだ学び直し修行中の画学生のつもりなので、自分の事を画家だと思ったことは無い。
そんな訳で老後の楽しみの絵画修行中なのだが、秋の展示会に向けて作品は用意しなきゃならないので、画題を考え、悩む日々が続いている。でも楽しむことが目標なので、普段の練習成果の、学習発表会のつもりで気楽にやっていこうとは思っているが、仮にも展示するのだから、自分の作品として、自分の表現として恥じないものにしたいという思いはある。作品を作るという事はそういう事だと思うのだが、自分らしさとは?自分の表現とは?など、この所毎日そんな事を考えながら過ごしている。
まあ、これもボケ防止、脳の活性化になるのかな。
そんな経過で、最近は仕事の合間にでは無く、日課としてさまざまな画材で絵を描いているのだが、まだまだ学び直し修行中の画学生のつもりなので、自分の事を画家だと思ったことは無い。
そんな訳で老後の楽しみの絵画修行中なのだが、秋の展示会に向けて作品は用意しなきゃならないので、画題を考え、悩む日々が続いている。でも楽しむことが目標なので、普段の練習成果の、学習発表会のつもりで気楽にやっていこうとは思っているが、仮にも展示するのだから、自分の作品として、自分の表現として恥じないものにしたいという思いはある。作品を作るという事はそういう事だと思うのだが、自分らしさとは?自分の表現とは?など、この所毎日そんな事を考えながら過ごしている。
まあ、これもボケ防止、脳の活性化になるのかな。
言葉を紡ぐ事は脳のリハビリ ― 2025/05/31
軽い脳梗塞を患って5年が経過しようとしている。本当に幸いな事に軽症だったので、若干の発声障害で済んだのだが、僅かでも脳にダメージがある事には変わりない。そこで何とか眠っている細胞を呼び起こして、壊れた細胞の代わりにしようとリハビリに励むのだが、脳の活性化を促すには、絶えず思考する事、考え続ける事が最も有効なのだと思う。ブログを書くことも、備忘録だけではなく、そんな脳のリハビリのつもりなのだが、つい更新を忘れ放置してしまうことも度々で、なかなか上手くいかない。
文章を書くためには思考を纏めて、文字化する作業を繰り返すことだ。そのためには思った事に適した言葉を探し出さなきゃならない。つまりは語彙力の豊富さが大事で、少ない語彙では自ずと表現力など生まれない。小説家志望ではないので味のある文章などは望んでないのだが、的確な表現をする事には拘りたい。若い頃研究者の端くれに居たもんだから、言葉に対して曖昧さは避ける癖が付いているようで、それが僕らしさと言えるのかもしれないが、ともかく先ずは病気治療のためにあれこれ考えながら、絶えず良き文章が生み出せるよう努めるとしよう。
言葉を紡ぐことが、脳の活性化につながると信じて。
文章を書くためには思考を纏めて、文字化する作業を繰り返すことだ。そのためには思った事に適した言葉を探し出さなきゃならない。つまりは語彙力の豊富さが大事で、少ない語彙では自ずと表現力など生まれない。小説家志望ではないので味のある文章などは望んでないのだが、的確な表現をする事には拘りたい。若い頃研究者の端くれに居たもんだから、言葉に対して曖昧さは避ける癖が付いているようで、それが僕らしさと言えるのかもしれないが、ともかく先ずは病気治療のためにあれこれ考えながら、絶えず良き文章が生み出せるよう努めるとしよう。
言葉を紡ぐことが、脳の活性化につながると信じて。