言葉を紡ぐ事は脳のリハビリ2025/05/31

軽い脳梗塞を患って5年が経過しようとしている。本当に幸いな事に軽症だったので、若干の発声障害で済んだのだが、僅かでも脳にダメージがある事には変わりない。そこで何とか眠っている細胞を呼び起こして、壊れた細胞の代わりにしようとリハビリに励むのだが、脳の活性化を促すには、絶えず思考する事、考え続ける事が最も有効なのだと思う。ブログを書くことも、備忘録だけではなく、そんな脳のリハビリのつもりなのだが、つい更新を忘れ放置してしまうことも度々で、なかなか上手くいかない。
文章を書くためには思考を纏めて、文字化する作業を繰り返すことだ。そのためには思った事に適した言葉を探し出さなきゃならない。つまりは語彙力の豊富さが大事で、少ない語彙では自ずと表現力など生まれない。小説家志望ではないので味のある文章などは望んでないのだが、的確な表現をする事には拘りたい。若い頃研究者の端くれに居たもんだから、言葉に対して曖昧さは避ける癖が付いているようで、それが僕らしさと言えるのかもしれないが、ともかく先ずは病気治療のためにあれこれ考えながら、絶えず良き文章が生み出せるよう努めるとしよう。
言葉を紡ぐことが、脳の活性化につながると信じて。

作品を作ると言うこと2025/05/28

絵の練習を始めたきっかけは、実は終活の一環だった。先のことを考えて色々片付けをしている時に、若い頃から捨てずに持っていた画材の扱いをどうするかと言う問題に直面し、処分するのも勿体無いので、使えるものと捨てるものを仕分けしながら、たとえば固まってしまった油絵の具は捨てるしかないが、きちんと洗っておかないで固まってしまった筆などは、何本かは何とか再生出来て使えるようになった。問題は、書きかけのまま放置していたキャンバス類だが、半世紀近くの時が経ち、絵の具層が劣化してひび割れたり剥がれそうになったりしたものもあり、そういうものは加筆を諦めて木枠から外して保存し、木枠にはパネルを貼って基底材として再利用する為ジェッソを塗ったりしてみた。また、プリンターが無くて使わなくなった沢山のA3のコピー用紙などの有効な使い道として、デッサンの練習でもするかと思うようになり、ちょこちょことやっていたのだが、一昨年晩秋に思い立って地元の美術協会に入ったので、秋の展覧会に作品を出すと言う課題を課す事となり、昨年春頃から久々に絵筆をとり、水彩画、油彩画、色鉛筆画などの練習をし、昨年秋の展覧会には作品らしきものを2点出品した。
そんな経過で、最近は仕事の合間にでは無く、日課としてさまざまな画材で絵を描いているのだが、まだまだ学び直し修行中の画学生のつもりなので、自分の事を画家だと思ったことは無い。
そんな訳で老後の楽しみの絵画修行中なのだが、秋の展示会に向けて作品は用意しなきゃならないので、画題を考え、悩む日々が続いている。でも楽しむことが目標なので、普段の練習成果の、学習発表会のつもりで気楽にやっていこうとは思っているが、仮にも展示するのだから、自分の作品として、自分の表現として恥じないものにしたいという思いはある。作品を作るという事はそういう事だと思うのだが、自分らしさとは?自分の表現とは?など、この所毎日そんな事を考えながら過ごしている。
まあ、これもボケ防止、脳の活性化になるのかな。

趣味と仕事2025/02/23

氷点下の朝が続く2月の半ば過ぎになってしまった。今年は飛び込みの仕事もあって結構忙しくしてるので、あっという間の二ヶ月だった。とはいえまだまだ終わったわけではなく、これからが本番というところだ。会社があった頃と違ってキツイって事はないけれど、この頃は結構難易度の高い仕事が来るので、決して精神的に楽ではない。いい意味での適度な緊張感が伴っており、高齢者にはいい刺激である。特に脳梗塞経験者としては、少々難しい仕事を順調にこなしていける事は、脳機能の改善に有効なリハビリだ。一方、絵の練習も欠かさずやっていて、春から作品制作にかかれるよう色々な練習をしている。でも、水彩や色鉛筆などは手軽にいつでも出来るが、油絵は極寒の倉庫をアトリエとしているので、もう少し暖かくならないと、手が悴んでうまく描けない。それに暖房の灯油も値が高くなって、ガンガン使うわけにもいかない。
そんなこんなで、適度な仕事と趣味の両立をしながら健康的に、できれば気ままな70代を生きようと心掛けている。
また、今年はきちんとテーマを決めて、何か残せる仕事をしたいと考えており、趣味の絵画では、絵手紙プロジェクトとして、小さな水彩画を制作しようと企てている。主題は福島の自然景観、身近な自然などだが、郵便料金も高くなったのでそれらをデジタル化し、SNSで知り合いに送ろうと思っている。また油絵は1段階進めて、伝統的な古典画法の習得に努め、今年秋の美術協会展に向けて10号の作品に着手するつもりだ。
とにかく、古稀を過ぎてもボケないよう、自分に色々と課題を課す。これ大事じゃないかなあと思うこの頃。

ブログを書くということ2024/12/14

このブログも何度か挫折した。
始めたばかりの頃は、埼玉から阿武隈山地の里山への移住直後だったので、山里から新しい暮らしの発信をと目論んでいたのだけれど、なかなか思うようにいかず、一旦全ての記事を削除してしばらく放置していたのだが、2011年の東日本大震災後のツタンカーメン展監修を機に、思いも新たに再開する事にした。
その後は不定期にポツポツと投稿してきたが、4年前の2020年7月に脳梗塞を罹患した事と病気持ち高齢者である事の実感を持ったことで改めて必要性を感じて書くようになった。
それは残りの人生の記録であり、時々の思いや出来事の保存であり、何より脳のリハビリのためだという事だ。
言うまでもなく、思いや考えを文字起こしする事や文章を綴ることは思考を深め、また思考を整理することなのだが、一方、加齢によって薄れ行くはるか昔の記憶をアーカイブする作業でもある。もちろん誰の為でもなく自分の為なんだが、古い写真アルバムを眺めるように、忘れそうな大事な記憶も残しておこうと言う企てでもある。

紅葉と画題2024/11/30

今年も明日から師走。霜月はあっという間に過ぎていき、桜はすっかり枝だけになって、紅葉も葉を落とし始めた。夏の猛暑のせいかキノコは実に変則的で、紅葉の頃にはすっかり見なくなった。
一方今年の紅葉はとてもあざやかで、散歩も十分楽しめたのだが、今までと違って、景色を見る目が変わった気がする。というのは、先月の三春美術協会展に初出展した事もあり、作品の画題探しと言うか、構図を気にする目になってしまっていた。制作を意識すると見方が変わるのだろう。スマホで撮る写真も構図を意識した取材写真のようになっている。
僕はまだ画家と言える様な者ではなく、強いて言うなら老画学生なのだが、そのうち徐々に画家の目になっていくのだろう。とは言え鮮やかな紅葉をどう描き残すか?というのは難題である。構図だけではない、どんな表現がいいのだろう?具体的にはどういうプロセスで・・・など、歩きながら考えるのはとても心地いい。散歩に新たな楽しみが加わったようだし、絵を学び直し始めたことはとても良かったと思っている。
さて、新たな計画を立てて、目標をもって画家修行に励むとするか。

人生初の美術展出品2024/10/19

昨日より三春美術協会展が始まった。
一昨日F6の油彩画とF4の水彩画を搬入し展示してきたが、私にとっては人生初の美術展出品である。たった3日間の短い展示だが、作品を公開するというのは初めてなので結構緊張して、直前まで油絵制作をしていた。きっかけは、昨年秋に友人の陶芸展見学で町の交流館まほらを訪れ、ホールで開催中の美術展に気づきフラッと入って関係者と歓談。気ままに絵の練習するだけでは何とも張りがないので、年に一回だし、どうやらあれこれ面倒な事もなく自由な空気感が漂っていたので入会を決めたのだが、あれからあっという間に時間が過ぎ、今年夏になっても画題も決まらず、結構焦りを感じてきた。何とか水彩画はそれなりに仕上げたがそれだけでは物足りないのでF6号の油彩をと思ったが、なかなか画題が決まらず、今月に入って身の回りの思い出の品々を集めた静物画に着手した。締切のあるプレッシャーを感じながらの作画作業は初めてだったので、作家さんたちの大変さをちょっとは体験できたと感じている。
ともあれ、これで一歩前に踏み出した事になるのだろう。改めて絵の練習計画も練り直して、今度は楽しみながら来年の作品を制作していきたいと思っている。
目標は透明水彩の基本技法と、油画においては古典画法による写実作品の制作だが、今回は作品が小さく感じられたので、油彩も水彩ももっと大きなものにしようと思う。そうなると額縁も大きくなるけど、とても高価になるので購入は諦めて、自作することにした。
材料もストックあるし、木工の趣味も活かせるかなあ。

母とセンブリ2024/10/01

今朝もいつもの林を散歩してきたが、そう言えば今年はセンブリを見ていないと気づいた。いつもなら夏の終わり頃に、キノコなどと一緒に尾根筋の乾いたところに群生が見られるのだが、どうした事か今年は全く見られなかった。センブリといえば漢方薬では胃薬として有名で、子供の頃母と一緒に山歩きをした際に教えてもらった記憶がある。
母は、故郷大垣では名の知れた「草のおばさん」で、夏休みになると地元文化センターで子供の押し花や草調べの相談会をしてたことがあり、押し花の標本もかなりの数があり、大垣周辺のほぼ全種類の草を収集していた。資料はその後一括して岐阜県立博物館に寄贈したが、晩年まで草の観察に出かける事もやめず、自室には植物図鑑や記録ノートなどがあった。
センブリを見つけると、母と歩いた垂井の円興寺周辺の山を思い出す。仕事の合間に天気が良いとよく近所の山に出掛け、母の植物観察に付き合ったものだった。山野草を見る楽しみはそんな経験から来たものだろう。草を見ながら散歩を楽しむことは、母との思い出を蘇らせるものでもある。
そういう散歩が好きである。これからも続けていこう。

学び直しで脳のリハビリ2024/09/26

学生時代には美術史を専攻し、絵画技法の研究には特に興味があったのでそれなりに詳しいつもりなのだが、実践的な訓練を積んできた訳ではなく、いつも興味のある技法を色々試すことはしてきたが、自分の作品と言えるものをを完成させることはなかった。高齢者となり、脳梗塞で一部破損した脳のリハビリを兼ねて色々学び直そうと思い、その一環でいつか成果発表的な個展ができるように、一昨年より絵の訓練を始めた。といっても職業画家になろうと言うのではなく、あくまでも趣味として楽しみとしてやっていこうと思っていて、ネットを駆使しYouTubeなどを参考にした独学スタイルで進めているが、気ままにやっていても張り合いがないので、昨年秋の三春町文化祭で地元の美術協会に入り、年に一回の美術協会展に出品することにした。
そんな訳で、初出展に向けて作品らしきものを製作中で、今年は油絵と水彩画をそれぞれ1点ずつ出展するつもりでいる。
公開する以上は納得のいく作品でありたいのだが、まだまだ積み重ねもなく一発勝負的な段階なので、これでいいのかと自問しているが、とりあえず現段階の成果発表ということで、まあよしとする。
とにかく目標を持って制作することは良い経験だし、課題を持って挑戦することは、ボケ防止ににもなり、何よりも脳の活性化リハビリだと思っている。
今月に入り、石器実測の仕事も入ってちょっとばかり忙しくなったが、この程度はやりくりして、メリハリのある日常のリズムができればいいと思っている。

イスラムの村2024/08/26

ナイル西岸の船着場
調査隊には色んな人が来る。我々大学の教員・スタッフや学生はもちろんだが、調査内容によっては委託した探査会社や環境検査会社、空撮や測量会社のスタッフ、そしてテレビ局や通信社に取材班などが加わることもしばしばで、実にバラエティーに富んでいる。中には少々変わった人がいて、現地でマネージメントする者にとっては頭の痛い事件を起こす場合がある。
例えば、仕事終えて夕食までの休憩時間に宿舎の外に出て村に行き、現地の人たちと仲良くなり、その人の家に行ったりする事。もちろん悪い事ではないが、慣れないイスラム社会で現地の習慣など無知な人が行動すれば、時には厄介な揉め事が起きるものである。前にも書いたが、観光ビザで入国し、政府の許可のもとで調査をしているのと、調査期間中現地では多くの作業員を雇う雇用者でもあって、色んな意味で気を使う関係で、必要以上に現地の人と親しくするのは控えるといった微妙な関係なのである。そんな状況で、ただでさえ調査で忙しいのに、個人的な揉め事など持ち込まれては困るのだ。そんな訳で一応滞在中の注意事項として毎回説明するのだが、つい浮かれた気分でルール違反する者もあった。
中には、暗い村の中にネオンのような明かりを見て、歓楽街か何かと勘違いして、そこへ連れ行けと頼まれたこともある。そこはモスクなのだが・・・。
調査中に作業員を現地で雇うには古くからの手順があって、まずは発掘人夫を束ねる親方に相談し、そこから手配してもらうのが伝統的なやり方なのである。我々外国人が直接人を集めたりすると、現金収入の少ない田舎では厄介な揉め事になる。微妙な立場の外国人がそんな事に巻き込まれると、調査許可に悪い影響が出る恐れもあるので、勝手に作業員を雇ったりするのは御法度なのだが、ある時勝手に現地の少年を雇い、紅茶を入れさせたり、笛を吹かせたりして悦に入っていた調査員がいて、私に賃金を支払うように要求してきた事がある。ハワード•カーターの時代のような優雅な調査気分を味わいたかったのだろうが、そんな勝手な事は断じて認められないので、拒否した事がある。
イスラム社会で外国人として暮らし、人を雇って発掘調査をするという事は、一度きりの物見胡散の観光旅行ではなく、長期にわたる現地との関わりに気を配らなければならないのである。
そういう事は、何度も現地調査に参加しマネージメントしてきたので、私としては痛感しているが、ゲストの調査員や一時的な派遣の技師さんたちにはなかなか分かってもらえず。これも懐かしい思い出だが、正直言って毎回毎回頭の痛い問題だった。

ワセダハウスの事2024/08/24

ワセダハウス
ルクソール西岸のクルナ村は王家の谷や王妃の谷へ行くための入り口だし、何よりも中王国時代からの貴族墓(私人墓)が集中しているところで、壮大な葬祭殿が立ち並び、言うなればまさに国際観光村である。
早稲田大学はこの村はずれのカーターハウス隣に、ルクソール考古学研究所(通称:ワセダハウス)を持っていて、毎年調査隊を派遣してきた。大学の職員になった後は、ここの維持費などの管理や現地でのメンテナンスなどが仕事となり、まさにワセダハウスの管理人であった。
当時(現在もそうかもしれないが・・)日本とエジプトには国としての文化協定は結ばれてなくて、ましてや私立大学の調査隊なので、観光ビザで入国し、考古庁の許可をもらって活動するといった具合であった。それはつまり入国の際に申請した調査機材などは、調査終了後にはいちいち持ち帰らなくてはならず、ワセダハウスも一時的な宿舎として認められたもので、エジプト政府から土地を借りて早稲田大学の資金で建てたものだった。そして調査隊が行かなくなるとエジプト政府に帰属するという協定だったらしく、少人数でも良いから毎年派遣してたのはそういう事情もあったからでもある。
建物は現地の伝統的な泥レンガで出来ており、埃っぽいところを我慢すれば冬は暖かく、夏も過ごしやすかった。ただし一度熱くなるとなかなか冷めないので、真夏の調査では、風のある屋外で寝るしかなかった。プリニウスのエジプト誌にも書かれているが、虫の多い水辺の屋外では高い塔の上で寝ていたらしい。
さて、そんなワセダハウスだが、吉村先生と川床睦夫氏の努力によって出来上がったのだが、現場工事を指揮した川床氏は、何号室か忘れたけど、自分の部屋だけ特別に念入りに仕上げたと、後になって聞いたことがある。
泥レンガの塀に囲まれたこの宿舎で、長ければ2ヶ月、通常は一月半ほど集団生活をして調査をするのだが、エジプトのクルナ村に一時的に日本人村が出現するのである。塀の中のこりない面々って映画があったけど、まさにこの中では思い出深い様々なことがあって、いろんな人たちに出会い、生活全般や調査の裏話など山ほどある。
覚えているうちにボチボチ書き残していこうと思ってます。