実家の存続と相続の事2024/03/12

実家を継いでいた弟が死に、配偶者は離婚しており、実子が相続を放棄したものだから、私や妹に相続が発生した。そこで不動産関係の名義を確認したら、土地の名義が1年半前に死去した母になっていることが分かった。その為、弟の遺産相続と合わせて母の遺産相続についても進めなくてはならなくなった。
さて、現実的には私も妹も相続を放棄せざるを得ないのだが、そうなると実家は国庫に入り、生まれ育った町から消えてしまうことになる。住む者もなく、管理継承できないのだからやむを得ないのだが、何とも寂しい事である。何とか故郷で暮らす妹が相続する道はないものか、あれこれ考えてみたが、実家は普通の住宅ではなく、1階部分が調理場と事務所で狭い階段を使う3階建ての建物で、大規模な改修なくしては、脳卒中で重度の障害を持ち車椅子生活の旦那と暮らすのはとても難しい。
上手くいかないものである。父と母が残してくれた大事な実家なのだが、元はと言えば、長男の私が出てしまったことが原因かもしれないが、それにしても弟家族が円満で、その子供が引き継いでくれていたらと思うと、現実の厳しさ儚さを感じずには居られない。

13年目の3112024/03/11

あれから13年の月日が流れ、今日はあちこちで慰霊祭が行われるだろうが、開催自治体の数は減っているそうだ。だんだんとあの災禍が忘れ去られようとしている。もしかしたら能動的に忘れようとしているのでは?と疑いたくもなる。人の命の何と儚い事よ、そんな思いが日々よぎるこの頃。そして今年2月はじめには弟が逝ってしまった。肝臓を患い大量出血して入院1日で死亡した。本人もまさか死ぬとは思わなかっただろう。あれよあれよで意識が遠のいて、多分苦しまずに眠るように逝ったと思っている。これまでの人生はなんだったのか?体を厭わないで暮らしてきたことが元で、死は突然に来る。そんなものなのだなあ・・・ため息しか出ない。
ところで、私は元気でいるが流石に歳のせいであちこち調子が悪い。特に脳梗塞の後遺症か?脳の一部が壊死したのだからしょうがないが、相変わらず声が出しづらく、誤嚥の心配もある。またオシッコの出も悪く、前立腺の問題ありか?と心配している。
それでも毎月薬の処方と検診で通院してるので、ひとまず体の点検は怠っていない。
本当に私は運が良かった。運としか思えないのだが、症状が軽症で、日常生活に支障がなく、そのおかげで体を厭うことを忘れないでいる。齢にせいで衰えるのはしょうがないことだが、点検しながら騙し騙しそれと付き合って行くしかないようだな。
まだ生き残っているし、もっと生きたいのでね。

メタセコイア;その22023/12/14

この冬に、我が家の庭にある東西2本のメタセコイアを伐採・剪定する計画で、当初は枝が大きく隣地にはみ出す西側を伐採し、東側を高さ半分程度にして枝剪定と考えていたのだが、方針を変更して東側のものを伐採する事にした。その理由は、風下にあたる隣地のよく手入れされた芝生や畑に落葉が大量に溜まり、ご夫婦での掃き掃除が大変そうだからだ。庭づくりの趣味は人それぞれなのだが、何処からともなく落ち葉が飛んでくるような山間地の集落で、落ち葉のない綺麗な芝生を維持することを、私なら考えないが、とにかく迷惑をかけてるようなので致し方無い。西隣の方は庭に無頓着で、たまに草刈りをする程度で特に苦情は言われてない。と、こうゆう訳で計画変更する事にした。
このメタセコイアたちは、浦和(さいたま市)に住んでいた頃、朝霞市の小学校の校庭から拾ってきた種から育てたもので、当時のマンションの庭で苗木になったものを三春の我が家に移植したのだった。娘の成長と共にに大きくなり思い出深いのだが、大きくなり過ぎた感は否めない。やはりメタセコイアを庭木にするのは無理があったようだ。

画家は職人(画工)2023/11/24

画家は表現者であると言うのは近年の概念であって、それ以前は職人としての画工であったと思う。依頼されて礼拝堂にフレスコ画を描く、注文を受けて肖像画を描くといったような工房または個人だった。それ故に画工または画工房としての表現に係る技術力が大事になる。そうしてさまざまな技法が模索され、画材も開発されていった事だろう。
画材の知識も乏しく、大した技術力もなく、まさにパッションのみで絵の具をぶちまけるような作品はどうしても好きにはなれない。
そんな事を考えているせいか?表現の前に正しい技術力を習得することに拘ってしまう。この傾向は、美術史を学んだことに起因すると思うが、的確な手順で制作された作品は、作品としての物理的堅牢性や安定感があるが、熱情の産物はその限りでは無い。
だから基本的な技法や画材に関する知識を持つことは大切なことで、絵の学び直しの一環として、美術工芸史を学び直そうと思う。

絵画修行について2023/11/22

学生時代に美術史を学んだ事もあり、一通りの知識はあるつもりだが、齢を重ね記憶が曖昧なところもある。だがその頃より一貫して興味関心があるのは、作家論ではなく技法についてであったと思う。時代によって絵画技法も変化するが、その背景には画材の進化という点も無関係では無いと思う。
そんな事を考えながら絵画を見ていると、描写力の背景には、画力だけでなく制作プロセスにおける職人技が重要な要素だと気づくことがある。
そんな訳で、もっぱら作品鑑賞というより、作品を分析的に観察するという癖がついてしまった。
僕が絵を描き始めたのは、そういった観察結果の実践というか、技法を知る為の実験であって、描きたい対象やテーマがあって、それを表現しようとしたものではなかった。
田舎暮らしで画廊巡りもできないので、もっぱらネットでたくさんの作品を見て、それを参考にいろいろ試作しているが、まだ自分の作品というものがない。練習や習作の類がどんどん貯まるだけである。でも、それも大事なプロセスと捉えているが、そろそろ作品を制作しようとも思う。
そんな訳で最近地元の美術協会に入った。
年に一回は作品を出展するという、自分へのプレッシャーである。
焦らず楽しむことが大事だが、画学生のつもりでやってみようと思う。

メタセコイア2023/11/07

我が家の庭にはメタセコイアが2本ある。20年以上前にタネを拾ってきて浦和のマンションの庭で育て、三春に家を建てた時に移植したのだが、ご覧の通り大きくなりすぎた。西側の一本はお隣に枝がはみ出してしまい、文句は言われてないが、やっぱり問題なのでこの冬に伐採するつもりだ。東側は半分ぐらいの高さにして、枝をうまく剪定してもらうつもりだが、庭師さんに相談した所、両作業とも一人じゃ無理そうで結構費用がかかる。ちょうど台所のリフォームも考えており、見積もりが決まり次第予算との相談になるが、先延ばしにしても諸物価高騰で工賃が値上がりするかもしれないので、何とかこの冬にやりたい。
樹形も黄葉した姿も気に入ってるけど、残念だが家庭の庭に植える木ではなかったなあと反省している。

方針変更のお知らせ2023/10/21

今まで、ここに何を書こうかと考えてるうちに時が過ぎ、なかなか更新できずにいたが、これからはもっと気楽にやっていこうと思うようになった。
来年は古希を迎える高齢者だし、人生の最終カーブを曲がりつつあるのは事実だ。たまには世相や専門分野のエッセイ的なものも混ぜるが、長めのツイートぐらいの感覚で、何より自分のために日々の雑感などを日記風に残そうかと考え、方針を変更する事にした。
人の記憶って、そもそもそれほど正確なものでもないし、歳をとれば尚更曖昧になり、認知症にでもなればもはや消え去ってしまうかもしれない。そんなことを思うこの頃なので、まさに自分のための備忘録としてやっていく事にする。

絵の練習2023/08/05

鉛筆デッサンの練習
 しばらく休んでましたが、ブログ再開します。
 病後のリハビリのため散歩は継続しているけど、最近新たに鉛筆デッサンなどを始めた。不要になった未使用の紙類を捨てるのは勿体無いので何とか有効に活用したいし、最近はペンや鉛筆で字を書くこともほとんどなく、娘の残した鉛筆も沢山あり、これらも捨てられない。また高齢のためか腕の微妙な動きも悪くなってきたので、細かな動作の訓練も兼ねて、腕を動かす体操みたいななつもりでやっている。でも、サカサカ無心に描いてると気が落ち着き、血圧の安定にいいということがわかった。あまり無理をせず焦らずのんびりとやるのが精神安定剤がわりなのだ。
 若い頃からやっていた油絵の道具類も手入れをし、手製のミニイーゼルなども作ったりして製作準備はできてるが、油絵コーナーは倉庫に作ったので、春・秋の気候がいい時しか製作できない。なので、まずは手軽な水彩画から始めている。と言ってもなかなか奥が深く、今回は本格的に始めるべくYouTubeなどの動画も参考にして
練習をしている。水彩紙も何種類か昔に買ったものがあるが、色々試すべく新たに入手もした。
とはいえ作品と言えるよなものを手がける前に、画力を付けなければならない。もちろん描画技法の習得も大事だが、まずは基本、すなわちデッサン力を身に付けたい。そんな事を思いながら、この夏を過ごしている。

転機そして再起動2022/08/16

三春の滝桜
先の投稿から随分と時間が経過してしまった。
あっという間に今年ももうお盆頃となり、庭ではミンミンゼミがうるさい。
この間はというと、一言で言うなら結構忙しくしていて、ブログに気が回らなかったと言うのが実情で、体調を崩したとか、PCが壊れたとか言うことではなかった。
さて、妻も私も高齢者の病人となり、社員もいないことだし元気なうちにと言うことで、3月末をもって会社を閉めることになった。そして最後の仕事が難易度が高い大仕事で、会社があるうちに納品しなきゃと言うプレッシャーで年明けからずっと緊張した日々が続き、無事納めた後はホットして、庭いじりや薪割りなんかで過ごしてきた。何しろ36年間続けてきた会社がなくなり、これからは個人事業主として再出発するのだから、春から夏にかけては諸々の整理や事業計画などを考える時間に当ててきた。
そんな訳で、仕事に関しては年金不足を補う程度あればいいんだが・・開けてみたら7月になるまで全くなくって、懇意にしてる会社に頼んで僅かながらのトレース仕事を出してもらうと言う始末。
秋口からは仕事の話も出てくるだろうと期待したいるが、いやはや脱サラ初年度は多難かもしれない。
再起動の年、滝桜も元気に咲き誇っていた。

早朝の公園にて2021/11/26

散歩を日課にして半年以上になるが、とても不思議に思うことがある。早朝にもかかわらず、公園の駐車場に何台か車があって、大抵はダム湖で釣りをする人たちなんだけど、中にはエンジンかけっぱなしで車の中で何やらしている人がいる。最初はあまり気に留めなかったけど、散歩に来てる様子もなく、釣り人でもなさそうで、覗いてみると本を読んだり、スマホをいじっていたりしている。日中ならともかく、近所の郡山ナンバーが多いが、朝7時前だというのにわざわざ自宅を出て公園に来るってどういうことなんだろう?不思議でならない。
一体彼らはどういう状況なのか?歩きながらいろいろ考えた。
ある時、新聞を広げて車内でくつろいでいるように見える人に出会った。あんまりジロジロ見るのは失礼なのでチラ見だけど、比較的若い人で、どうやら飲み物も用意してくつろいでいるとしか見えないのである。
そこで思いついたのが、一人でくつろげる場所が自宅にないのか、出勤前に一日の起動準備でもしてるのか、どちらかではないだろうか?ということである。
我が集落は、私を含め都会からの移住者も多いが、周りは昔からの農村である。確かに農家の間取りには個室なるものがないのかもしれない。そう考えると何となく理解できる。
いろんなケースが有るだろうけど、まだ寝ている家人を気遣って、わざわざここまで来たのかもしれない。気兼ねなく駐車してくつろげる場所は公園のパーキングかもしれない。
そういえば、愛車のワンボックスを居間のように使っている人のことをニュースで見たこともある。
そんなふうに考えると、何だか少しばかり気の毒でもある。